特に趣味と言う程でもないのですが古い建築や仏像などを観るのが好きで、気が向けば京都や奈良に出かけることがあります。
数百年、千年も前の建築や仏像彫刻の造形美など匠の技を目の当たりにすると、あらためて日本の文化を誇りに思います。
当時の匠がどれくらい修行し、訓練して作品を造り上げたのか、経験や工夫を積み重ねて造ったに違いない、現代のように進んだ技術や豊富な情報を手に入れた私達にも太刀打ちできない技があります。
匠の技と言えば、寺院建築や仏像彫刻に限らず、昔から職人や名工と呼ばれる匠が時代を越えて活躍していたんでしょう、日常生活のあらゆる分野で活用された手作りの逸品が残っています。
私が職人や名工の技に興味を持ちはじめたのは、若い頃出会った仏師のお話を聞かせてもらったのがきっかけだったように思います。
友だちがたまたま知り合った山寺の和尚さんが、ユニークな人柄でおもしろい話を聞かせてもらえるらしく、一緒に遊びに行かないかと誘われたんです。
もちろん興味津々で山寺を訪れたところ、その和尚さんが脱サラをして荒れ寺を再建したことや、まわりの森を一人で整備して今や借景として楽しんでいることなど、楽しい話をいろいろ聞かせてもらいました。
奥さん手作りの、山菜や野草の料理も御馳走になり、フキが食べられるようになったのもこの時からです。
ちょうどその時居合わせた一見僧侶風の物静かな人が、仏師をなさっているとのことでした。
主に木彫で製作されているようで、たまたま持って来ておられたノミや彫刻刀などの道具類も見せてもらうことができました。
刃物はお気に入りの刃物師に作ってもらい、柄の部分は自分の手に合うようにひとつひとつ削って作ること、曲った木はそれを生かして彫刻すること、当時の我々若造にも丁寧に教えてくださいました。
話の中で、彫刻をしている時削りすぎたり失敗したことは無いんですかと尋ねたら、「仏様は最初からこの丸太の中にいらっしゃいます、我々の仕事はその仏様のまわりのゴミを取り除いているだけですから」と。
さらりと語る一言に、そんなバカな、現実離れした話はにわかに信じ難いしあり得ないと思いました。
同時にその淡々と語る口調の中に静かな気迫を感じ取って不思議な気持ちになった記憶もあります。
観念的だと嘲笑されそうですが、そういうことは確かにあるんだと私は思っています。
匠の技は優れた技能者がその一生をかけて磨きあげたものだとすると、個人の技の全てを後継者が受け継ぐことができない、匠の技はいつもゼロからスタートし燃え尽きてしまいます。
だからこそ時代や世代を越えてもいいものはいい、美しいものは美しいということになるんでしょう。
「技能」と似た言葉に「技術」があります、技術は知識や理論、ノウハウなどの情報を含めたもので、国や会社などの単位で持つことが出来ます、また技術は後の人に引き継ぐことも、進化させることもできます。
現代は技術が勝負、私達は常に技術力を試されているのかも知れません。
大量生産、大量消費の使い捨て時代になった今、匠の技は一部の伝統工芸などに見る事ができますが、全体的には数少なくなってしまいました。
看板屋もひと昔前までは、自らの腕一本、筆一本で生計をたてる技能職と言える職業だった様に思います。
それがIT時代の今、コンピュータの前で遅れまいとしがみついている自分がいます、もちろんこれも好きでやっていることですが、過去の匠たちに憧れと尊敬の念を忘れずに、厄介なコンピュータとも仲良くしながら、これからもこの仕事を続けていきたいと思っています。